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zoom RSS ある本から辿りついた言葉

<<   作成日時 : 2009/09/24 13:37   >>

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画像新しい“民主主義の草の実”が蒔かれることを願って・・・ 」について
表題の二作品が、あまりにも有名であらためてコメントもいらないが、
この作品集のタイトルである「吶喊」(とっかん)という言葉が印象に残った。

「私も若いころは、たくさん夢をみたものである。あとであらかた忘れてしまったが、自分でも惜しいとは思わない。
 思い出というものは、人を楽しませるものではあるが、時には人を寂しがらせないでもない。精神の糸に、過ぎ去った寂寞(せきばく)の時をつないでおいたとて、何になろう。私としては、それが完全に忘れなれないのが苦しいのである。その忘れられない一部分が、いまとなって『吶喊』となった。
  (中略)
 寂寞のただ中を突進する勇者に、安んじて先頭をかけられるよう、慰めのひとつも献じたい。」

 一般的に「吶喊」とは、「敵陣に突入する時など大勢が一時にわめき叫ぶこと。ときの声をあげること」(広辞苑)とされている。本書「自序」に込められた作者の意図を、ある人はこう解釈している。
 「鉄の壁の部屋に閉じ込められている自分。もはや自分自身は社会改革の担い手にはなれないが、せめて重責に耐えて活動する革命家の精神的苦痛をやわらげるための声援を背後であげてやろう。」
そんな熱い思いが込められているとのこと。

この作品集の中の一つに「故郷」がある。
少し長くなるが、その冒頭を引かせていただく。

「きびしい寒さのなかを、二千里のはてから、別れて二十年にもなる故郷へ、私は帰った。(略)
 苫のすき間から外をうかがうと、おぼえず寂寥の感が胸にこみあげた。
 ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。
 私のおぼえている故郷は、まるでこんなふうではなかった。
 私の故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思いうかべ、その長所を言葉にあらわそうとすると、
  しかし、その影はかき消され、言葉はうしなわれてしまう。
 やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこで私は、こう自分に言いきかせた。
 もともと故郷はこんなふうなのだ−進歩もないかわりに、私が感じるような寂寥もありはしない。
 そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。
 なぜなら、こんどの帰郷はけっして楽しいものではないのだから。
 こんどは、故郷に別れを告げに来たのである。・・・・」

巻末解説によれば、魯迅は1919年の末に、帰郷して家を整理し、一家をあげて北京へ移住しており、
そのときの体験を加工したものであろうとされている。
そして、こんな言葉で結ばれている。

「希望といえば、かれらは新しい生活をもたなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を。 (略)
 思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。
 もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」

氏の作品・紡ぎ出す言葉を辿っていると、「希望」と「寂寞」とが表裏の関係にあるように思えてくる。
ここに収録されている作品を通して、いずれも寂寞を希望に変えていく力をもらうことのできるのではないだろうか。

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)
岩波書店
魯 迅

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