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zoom RSS 大学入試問題に思う〜経済学を考える〜

<<   作成日時 : 2010/02/07 12:33   >>

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画像■今年の大学入試センタ−試験に出題された国語(現代文)に目が止まった。

 岩井克人「資本主義と『人間』による」と注記された経済学に関わるものである。ある大学受験予備校の方によれば、「センター試験で出題される国語第一問の出典は、問題そのものもさることながら、教育的な視点では、若者への、そして社会へのメッセージであることも多い」とのこと。そこで、何よりもまず大元の出典を辿ることにした。

 氏の著作には、『ヴェニスの商人の資本論』、『資本主義を語る』、『貨幣論』、『二十一世紀の資本主義論』、『不均衡動学の理論』、『終りなき世界〜90年代の論理』(共著)、『会社はこれからどうなるのか』、『会社はだれのものか』、『資本主義から市民主義へ』(共著)、『M&A国富論』(共著)など多数ある。その中で、今回の問題にとりあげられたものは、『二十一世紀の資本主義論』(2000年)の「短いエッセイ」の中に収められている(初出:朝日新聞1985年4月2日夕刊)。ほんの6ペ−ジ足らずであるが、氏の考えの核心が凝縮されているようだ。出題部分を絡めながら、少し内容を紹介する。 

■「フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。
 一度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、
 二度目は、ダ−ウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、
 そして三度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中
心から追放されたときに。
 しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった傷が秘められている。だが、それがどのような傷であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは「ヴェニスの商人」について語らなければならない。」

 こんな書き出しで、このエッセイは始まる(問題には全文が掲載されている)。「ヴェニスの商人」とは、「人類の歴史の中で「ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者」のことであり、「地理的に離れた国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生みだす存在」である。

 しかし、「経済学という学問は、まさにこのヴェニスの商人を抹殺することから出発した」という。その意味は、「経済学という学問は、差異が利潤をもたらすという認識を退け、人間の労働を富の創出の中心に位置づけることから始まった」ということである(設問1)。

 それを端的に表すものとして、アダム・スミスの「国富論」の冒頭を挙げる。

「年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費されるあらゆる必需品と有用な物質を根源的に供給する基金であり、この必需品と有用な物質は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれと交換に他の国から輸入したものである。」

 これを氏は、経済学における「人間主義宣言」とし、これ以降、経済学は「人間」を中心として展開されることになったという。

 しかし、「産業革命から二百五十年を経た今日、ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌が伝えられている。」それは、「技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態」だとする。
 では、「情報そのもの」が「商品化」されるとはどういうことなのか。その具体的な現象事例として「多チャンネル化した有料テレビ放送が提供する多種多様な娯楽のように、各人の好みに応じて視聴される番組が、商品としての価値をもつようになる」ことだという(設問2)。

 また、産業資本主義の社会の中に、ヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見できるという。そこに「伝統的な経済学の『錯覚』」が起こる。つまり「産業資本主義の時代に、農村の過剰な人口が労働者の生産性と実質賃金率の差異を安定的に支えていたために、伝統的な経済学は、労働する主体を利潤の源泉と認識してしまった」ということである(設問3)。

 そして「「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった」と結論づける。つまり、「産業資本主義の時代においては、労働する「人間」中心の経済が達成されたように見えたが、そこにも差異を媒介にする働きをもった、利潤創出機構としての「ヴェニスの商人」は内在し続けたため、「人間」が主体として資本主義にかかわることはなかった」というのである(設問4)。

■これがエッセイの大筋である。氏の考えのポイントを押さえられるよう、各設問が巧みに設定されているのがうかがえる。
 このエッセイが載録されている『二十一世紀の資本主義論』の冒頭に、同書発行の際に書きおろされた書名と同じタイトルの論文がある。副題「グロ−バル市場経済の危機」、序章「投機と危機」ではじまる。20世紀末に体験した、東アジアに端を発する金融危機の分析を通して21世紀の経済について語っている。

「「アダム・スミスの時代」である二十一世紀とは、アダム・スミスのいう「見えざる手」がその力をますます失ってしまう時代なのである。(中略)
 二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグロ−バル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。」

 こう結ばれている論文を収めた同書は、今考えると、まさしく21世紀に入って間もなくサブプライムロ−ン危機やリ−マンショックを経験することになる私たちへの警告の書であったといえよう。ここに、今回のセンタ−試験の出題者のねらいを推し測れるのではないだろうか。

二十一世紀の資本主義論
筑摩書房
岩井 克人

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